「ただならぬぽ」について

『南風』7月号、「俳句深耕」の原稿を転載します。

 

島健一が2017年第一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)を上梓、句集タイトルに採られているのが、


ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ


の句であり、その年話題になった作品である。田島健一の師匠である石寒太は、この句を高く評価している(『俳句α2018春号』)が、私も初めて見た時に印象に残り他の句も読んでみたいと句集を購入したので、本句の斬新な魅力について述べてみたい。
 この句は一見「海月」を詠んだ句のように思えるが、作者は「ぽ」という言葉、あるいは「ぽ」という音が喚起するイメージを俳句にしたかったのだと思う。『天の川銀河発電所』(左右社、2017年)のなかで山田耕司が「この句には、作家の資質そのものであるような余剰の「ぽ」が本体であり、そのアリバイのような言葉で俳句というパッケージに仕立てられている風情があります。」と指摘をしているが、全く同感である。田島健一は無意味なものを結合させたり、意味を奪ったりして新たな俳句の地平に立とうと試行錯誤している。意味のない「ぽ」の連続音から明滅する光のイメージが結ばれ、「海月」がそこに浮かび上がったのだろう。常識的な視線を打ち消すために「ただならぬ」という形容詞で「海月」を修飾することにより、シュールな景色を出現させたのである。海面に発光しながら浮遊する無数の海月群、「ぽ」のP音を「海月」の後と句の最後に置いて光の明滅する印象を打ち出すとともに、海月の浮遊感を出現させることに成功した。「光追い抜く」のフレーズにさしたる重要性はなく、全体の調子を詩的に整えていくための言葉であろう。
俳句の作り方として、十七音という極端に少ない文字数で最大限の想像力を喚起するために、正岡子規の提唱した「写生」は対象物の描く主体に焦点を絞り込み、極力無用なものは省略するというのが主流である。従って本句のように無意味な文字を付加する作句法というものはなく、その意味でも斬新な作り方なのである。写生によるスケッチで描かれた絵と、デザイン画のポスターというほど、表現手法は異なっている。取り合わせであるが二物衝撃とはまた違った作句法で、デザインして編集した俳句というしかない。主題を言葉に依存するのではなく、イメージを多重に構成することで俳句を完成させている。「ぽ」が挟み込まれても全体のリズム感があり、実質は無意味なのだろうが、連想が広がって面白く味わえる句となっている。
島健一の句の傾向は、師の石寒太が句集『ただならぬぽ』の序文に書かれた「無意味之真実感合探求 新感覚非日常派真骨頂」言葉のとおリである。<蛇足だが、この序文は川端茅舎句集『華厳』へ高浜虚子が書いた序文「花鳥諷詠真骨頂漢」のパロディであり、笑える。>田島健一の句のほとんどは、焦点をずらしたり、意味をとらせぬようにしたりしているので、雰囲気にのれなければ難解、意味不明の句群でしかない。句集を通読したが、必ずしも田島健一の志向する句作が成功しているとは言い難い。例えば同句集の「海月」の他の句には、以下のものがある。


紙で創る世界海月の王も紙


帯に抜いてある句なので作者お気に入りなのだろうが、紙工作の作業、あるいは紙製品のディスプレイなのだろうか。紙に視線は注がれているが、描こうとする世界が見えてこない。


仏法にひたおどる使徒のぼる海月


これもよくわからない。作者は仏画か何かの絵を見ているのだろうか。「のぼる海月」は「海月がのぼるようだ」という比喩なのか。「使徒」の言葉使いの違和感。作者の感興の焦点が不明なため、意味を考えても仕方がないのかもしれない。
俳句の形をしているだけの無意味な言葉が並ぶのだとすれば、無意味の追及は本当に真実を感じるところへ到達できるのであろうか。再び『天の川銀河発電所』を引用するが、「定型だけを頼りに、「俳句」にならないよう世界との遠近感を壊そうとしているフシがある」と山田耕司は言う。破壊の後に田島健一が、「俳句」ではない俳句を作ることができるのか、今後の句作に注目したい。

島健一は1973年東京生れ。石寒太に師事、「炎環」同人。「豆の木」(代表こしのゆみこ)に参加。2015年、鴇田智哉、宮本佳世乃、生駒大祐とともに季刊同人誌「オルガン」創刊し、現在活動中である。