大木あまり「柊忌」五十句より

「南風」の「競読 現代の俳句」原稿の再録、第2弾です。

大木あまり「柊忌」五十句(「俳句」平成29年12月号)より。

 

太陽や七十歳の水着干す


水泳に通って泳いでいる人なのだろう。中七の「七十歳の」という措辞が威風堂々として全体をよく引き絞めている。干されている水着に、水中を泳いでいく躍動する肉体が連想される。健康を祝福しているがごとく、太陽からは燦々と光が降り注いでいる。仮に「六十歳の」としたなら、まだ年若く平凡だし、「八十歳の」としたら、年齢的に心配になる。七十歳は高齢化社会の元気を示すメルクマールの年齢としてぴたりとはまっている。


泣きしあと瞼ふくるる通草かな


誰か大切な人が亡くなったのであろうか、悲しくて泣きはらした作者が、鏡に映った顔を見ると、瞼が腫れてアケビの皮のように厚ぼったくなってしまったという句意なのだろう。作者の悲しみが深かったことは容易に推測がつくが、それを「通草」の季語に託したこの句は成功しているとは言い難い。瞼とアケビの連想が安直で形状の類似感しかなく、それ以上の展開を産んでいないからである。