俳句の縦書きについて

『南風』3月号に掲載された「俳句深耕」原稿の転載です。

 

 俳句は通常縦に書き、縦に書かれたものを読んでいる。俳句は、なぜ縦書きなのだろうか。これは自明の理なのかを考えてみた。小川軽舟が、俳句α2018秋号の『俳句とIT 俳句の「場」が変わる』で次のように書いている。

 

ITによって未来の私たちの生活が大きく変わっていくのと同時に、私たちの俳句をめぐる環境も大きく変わっていくだろう。俳句は紙に縦書きで書くものだという感覚からは違和感も生まれることと思う。私は吟行に句帳を携えることがなくなった。スマホで打ってパソコンに送れば済むからだ。しかし、俳句という詩型はそのようなことでへたるほどヤワなものではないと信じている。ITの時代に俳句がどういう進化を遂げるのかを楽しみたい。

 

 俳句の縦書きが絶対的なものでなくなりつつあることが指摘されている。私自身も小川軽舟と同じく句帳は携帯せずスマホを利用している。南風のメール句会は清記、結果発表が縦書き配信されているが、私が仲間うちで開催しているメール句会は、清記、結果発表もすべて横書きである。『クドウ氏の俳句帖』という自分のブログも横書きで、俳句をわざわざ縦書き変換することはしていない。縦書きへのこだわりは私には全く無いのである。
 俳句が縦書きされるのは、俳句が古典詩であり、発生以来その表記方法は縦書きしかなかったため、縦書きを前提として発展してきたことによる。そしてもう一つは、俳句を書くための日本語の書き方の特性によることが大きいと思われる。
 書字の方向は文字の並べ方により縦書き、横書きに二分され、それぞれが行または列の並べ方によりさらに二分される。縦書きは、文字を列ごとに上から下に縦に連ねる。縦書きには、列を右から左へ順に並べる「右縦書き」と、左から右へ順に並べる「左縦書き」があり、中国語、日本語、朝鮮語は、本来「右縦書き」である。これに対し 英語に代表されるインド・ヨーロッパ語族等は、左から右の横書きの「左横書き」であり縦書きされることはほとんど無い。日本語は漢文に倣い、文字を上から下へ、また行を右から左へと進めて表記を行うものであり、漢字と仮名は縦書きを前提とした筆順となっている。印刷物の本文は、日本で発行されている新聞、雑誌、一般向け書籍の多くで、現在も縦書きが主流であり続けている。とりわけ新聞の一般紙では、縦組みしかない。文芸作品の多くは縦書きだが、ケータイ小説は横書きが多い。
 文字を「読む」「書く」という行動は、当然ながら筆順に沿ったかたちで行われ、文字に書かれた内容を認識することになる。縦書きのルールが千年以上続き、日本人にとっては常識として潜在意識に刷り込まれている。ゆえに俳句についても縦書き表記であるべきとする主張がされることになる。武馬久仁裕は『俳句の不思議、楽しさ、面白さ』(黎明書房、2018年初版)で述べている。

 

俳句は基本的に一行棒書きで、縦に書かれます。これによって、俳句は、作者や読者の前に、上から真っ直ぐに垂れ、降りて来て、そして完結します。作者や読者の前に、俳句はしっかりした垂直性を持って現れるというわけです。

本来縦書きで書かれ、縦書きで読まれることを期待された句を、横書きで読むなど、本当の鑑賞ではないと思います。横書きで表記されて良いのは、鑑賞用ではなく資料として集積する場合か、初めから横書きで書かれた句ぐらいです。ただ、その場合も、横書きで書く必然性がなければならないことは、言うまでもありません。

 

 俳句が文字として視覚化された場合の、詩としての全体的イメージの見せ方の問題であると思うが、だからといって俳句が縦書きであるべき理由となっているのだろうか。俳句の定義はいろいろあるだろうが、縦書きは俳句という詩を成立させる必要条件ではないと考える。あくまでも表記の問題にすぎない。
 日本語は縦書きと横書きの両方が併用可能な文字言語であり、文字を正方形のマスに見立てて配置する漢字および漢字から派生した仮名文字の特徴といえる。英語は横書きしかできないから、初めから問題にならない。日本語に横書きが現われたのは、蘭学ポルトガルの文書を見てからだろうが、外国語や数字の記載は圧倒的に横書きの方が利便性に勝るので、横書きは次第にシェアを拡大し現在は公文書、国語関連を除く教科書などみな横書きである。もはや縦書きは新聞、書籍だけだろう。しかもスマホの普及により、「読み」「書き」の主流は完全に横書きとなっている。スマホの操作は、キーを押すことであり文字を縦に書くということはなくなっている。新聞や書籍はスマホ拡大により市場の縮小が顕著である。主役は交代しており、今までの習慣的行動が常識とした縦書きは、その地位を揺るがされているのである。
 私は俳句を横書きにしろと言っているのではなく、横書きの俳句という表記も今後は格段に増加すると予想しているだけである。書く道具が横書きで、読む道具が横書きならば、必然的に横書きが主流になるだろう。俳句は今も文語表現が継続しており、俳句界では今後も縦書き表記の主流が続くだろうが。
 パソコンやスマホの普及により横書きは日常的なものとなっているにもかかわらず、詩歌部門の出版でも横書きはごく稀である。詩集では、白石かずこの第一詩集『卵のふる街』が横書きだった。岡井隆の歌集『伊太利亜』は表紙が縦書き、作品は横書きで出版された。句集では未見であるが、kindle版で『ヨコシマ オカピート横書き俳句集』というのが出ている。
 句集の製作者サイドの意見として、『ふらんす堂編集日記』(2017.11.12)「句集は縦書きのもの?」の題で、横書きという表記は結構身になじんでいるにもかかわらず、でも「句集」は「縦書き」と信じて疑わなかったと述べられていて興味深い。

 

編集サイドから言えば、いろんな編み方があってもいいし、そういうことが句集の多様性や句集文化の豊穣さににつながっていくと思うけど、俳句を書く側からは、意見はさまざまにあると思うし、反対意見も当然あると思う。

 

 横書きの句集は、横書きということが主張になってしまい、句集の内容よりもそのことについての対応が煩わしいということもあるだろう。また、すべて横書きにした場合、伝統からの離脱であり無意識に抵抗感を感じるのかもしれない。土台の無いところに立つことになる不安定感はあるだろうと思う半面、全く未開拓の地なのだから限りなく自由でもある。横書きの句集も開拓してみてくれないかと、ふらんす堂に期待している。