愛誦の一句

『南風』9月号の「愛誦の一句」原稿の転載です。

 

大丈夫みんな死ねます鉦叩

 

作者の高橋悦子は、昭和十一年、東京都北区生まれ。第九回現代俳句協会年度作品賞を受賞した「シュトラウス晴れ」 の一句である。主観的な主張が述べられる作品は、結論が明示されていることから好き嫌いが分かれるところだが、作者の思いと読み手の思いがピタリとはまると強い断定が心地よく、一読して忘れられない句となった。

昭和十年生まれの私の母は、肺気腫で危篤状態になったが一命をとりとめ、今は老人介護施設のお世話になっている。八人兄弟であるが、妹にも先に逝かれ最後の一人となった。生きていることが負担になってきたのか『世話かけて、すまんねえ』『死ねんもんねえ』が最近の母の口癖である。すまないことは何もない。誰もが通る道を歩いているだけであり、未だかつて死ななかった人は一人もいない。母の話を聞くと、いつもこの句が思い出されるのである。

掲句は、いきなり「大丈夫」と強く宣言され、「みんな」とその対象は全員であると安心感が増幅される。

「死ねます」と、通常抱いている死にたくないという思いと真逆の発想が意表を突き面白い。秋の季語である「鉦叩」のチンチンの鳴き声が死に共鳴してよく効いている。

死は、平等に万人に与えられている。死によって過去の全てを清算できることこそが、人間の最大の「救い」なのである。古代中国の秦の始皇帝は不老不死の薬を求め、日本にも徐福が派遣されたとの伝説が残っているが、永遠に生きたいという気持ちが理解しがたい。もし永遠に生き続けなければならないとしたら、積み重なつてゆく失敗や後悔をひきずりながら歳月を重ね、清算は永遠に許されないことになる。この世が楽園でない以上、終わりのない人生、それは業苦以外の何ものでもない。死が無くなれば、その対象物である生もまた消滅してしまうだろう。生という概念がない世界を想像できるだろうか。