奈落

奈落とは何か。劇場の舞台の下や歌舞伎の花道の床下の空間を「奈落」と呼ぶ。廻り舞台や迫り出しの装置があり、通路にもなっている。学生の頃、舞台装置のアルバイトで劇場に出入りしていたので馴染み深い言葉ではある。「奈落の底」という言葉があるが、個人的には今置かれている状況がそれ。突き落とされた気分。奈落とはもともとは地獄を意味する言葉、地獄に落ちたということか。脱出しなければ、長くいるところではない。


夏芝居奈落に人のうごめきて

酷暑

18日の日曜日、快晴である。朝から日差しがきつい。梅雨明けしたと思ったら真夏日が続く。本当は休耕田の草刈りをしたいのだが、熱中症で倒れては話にならないので、取り止めにする。
コンビニにいくと冷房がよく効いていて寒いほど。これも不自然極まりない。熱帯かと思う天気も異常だが、人間のやることもおかしいことが多い。
首が痛みで回らないので、マッサージを受けに行く。


ここかしこ皆炎帝に跪く

いやんなった

月曜日に、会社のサーバーがダウン。仕事が溜まっていくがどうにもならぬ。

火曜日、降車する駅で目が覚めると無情に扉は閉まり、乗り越す。次の無人駅で電車をベンチで30分待つ。

水曜日豪雨。帰りの電車が1駅移動したら運行休止となる。運転再開は午後10時。家に帰りついたのは午後12時。

木曜日、サーバーは復旧せず。寝不足で体が重い。仕事を切り上げ帰る。

金曜日、サーバーは依然として復旧せず。ストレスだけが溜まり、酒量がふえる。

土曜日、肩こりが激しく、首が回らない。

ああ、いやんなった。憂歌団の歌のフレーズが頭に浮かぶ。

迎え火

迎え火は、お盆に自宅へ帰ってくるといわれる先祖の霊を迎える目印として、玄関先や庭などで焚かれる火のことをいう。私の住んでいる所は新盆対応なので、13日夕方に迎え火を焚いた。今年は5月に亡くなった母の初盆、ご先祖様が帰ってきて賑わしい。


迎え火や迷ふことなく来られたし

犬の俳句 猫の俳句

『南風』に寄稿したものの転載です。

 

ペットとして人間に愛玩される動物は多いが、双璧をなすのは犬と猫である。世の中の人は、犬好きと猫好きに分かれるらしい。私は昭和33年生れの戌年で、去年まで自宅でトイプードルと一緒に暮らしていたこともあり、猫に恨みはないが断然犬に肩入れする犬派である。

犬も猫も身近にいる動物としてこれまで俳句に詠まれてきたのだが、どうも犬より猫の方が優勢な気がする。

 

叱られて目をつぶる猫春隣    久保田万太郎

百代の過客しんがりに猫の仔も  加藤楸邨

猫の恋する猫で押し通す    永田耕衣

黒猫の子のぞろぞろと月夜かな  飯田龍太

冬空や猫塀づたひどこへもゆける 波多野爽波

 

猫の俳句でよく知られた句は多い。また猫のアンソロジー本も多数出版されていて、『猫の国語辞典』佛渕健悟・木暮雅子編(三省堂)、『日めくり猫句』石寒太(牧野出版)、『猫俳句パラダイス』倉阪鬼一郎幻冬舎新書)、『猫踏んじゃった俳句』村松友視角川学芸出版)。句集でも、加藤楸邨の猫俳句だけ集めた『猫』(ふらんす堂文庫)、大木あまり・藤木魚酔共著の『猫200句』(ふらんす堂)などが出ている。猫の俳句本は賑わしいが、犬の俳句本は皆無と言ってよい。そもそも犬の有名な俳句としてすぐ思い浮かぶものが少ない。

 

顏抱いて犬がねてをり菊の宿   高浜虚子

春寒やぶつかり歩く盲犬     村上鬼城

雪の原犬沈没し踊り出づ     川端茅舎

土堤を外れ枯野の犬となりゆけり 山口誓子

犬抱けば犬の眼にある夏の雲   高柳重信

 

だが犬の俳句の作句数が少ないというわけでもない。雑誌『俳句』12月号には、令和俳壇に犬の句が4句入選していた。この月、猫の句は1句のみであった。ネット上の「俳句季語一覧ナビ」でも犬を使用した俳句例が約300句掲載され、それなりのストックはあるのだ。

犬の俳句がなぜ劣勢かというと、季語があるかないかが一つの理由としてあげられる。「犬」も「猫」も単独では季語ではない。しかし、猫には春の季語に「猫の恋」「子猫」があり、このハンディは大きい。犬も発情期はあるし子も産むのだが、季節の風物詩となるほどの情景ではないため「犬の恋」「子犬」の季語はないのである。恋の文字は日本文学の相聞の系譜につながり、春には「猫の恋」の句がずらりと並ぶのである。季語は俳句の重要な要素であり、迷わず季語を選択できる強みは、はかり知れない。

 しかし、季語の有無よりも根本的なのは、犬と猫に対しての我々の持つイメージの問題なのではないだろうか。一般的な犬から連想するイメージは、忠犬ハチ公に代表される「忠実」「従順」、猟犬や警察犬の「探索」「狩猟」、ペット犬の「家族」「献身」「愛情」などが思い浮かぶ。よく使われる「野良犬」「狂犬」は実際に目撃することはない。猫に連想するイメージは何だろう。「自由」「奔放」「恋愛」「柔軟」、ペットとして連想するのは犬と似たようなものだろう。

『俳句』12月号令和俳壇の犬の句4句を見てみる。

①愛犬の真っ直ぐな目と梅雨籠る

②炎天下犬も鴉も口呼吸

③愛犬を手放す余生草の花

④犬の嗅ぐ獣道から涼新た

①③は「愛犬」と呼び自分が飼っている犬であると特定し、かわいがっていることを強調している。②と③は犬の動作を取り上げているが、犬そのものを詠もうとしたわけではない。口を開けて息をしていることも、鼻で匂いを嗅いでいることもそれ自体は、普通の犬の行動である。大半の犬はペットとして飼われているのだから「かわいい」気持ちは当然で、それをそのまま句にしたところで、面白くもなんともないのである。愛情と犬の仕草や行動を結びつけるのだが、「走る」「寝る」「座る」「嗅ぐ」など類型的な情景に陥りがちとなる。客観的に犬を詠もうとすると景色の一コマになり、犬本来の生態が消えてしまう。犬にもつ固定観念が犬の句を作る際に大きなブレーキとなり、発想が飛躍せず新しい発見に至らないのだ。しかし、これは言い訳なのだろう。鈴木牛後の『にれかめる』は牛の俳句に新生面を開いたが、犬の俳句に真正面から取り組む者が待たれているのかもしれない。

句集『稲津』(157)あとがき

【句集『稲津』(157)】

あとがき

 平成三〇年に六十歳となり、還暦を記念して第二句集を作成することにした。
 本句集には、二〇一三年九月から二〇一八年十二月までに詠んだ俳句三一二句を収録している。
 句集のタイトル『稲津』は、私が住んでいる稲津町に由来するが、第一句集『萩原』の大字萩原より、もう少し広い世界に出られたかなと思う。さらに遠い場所をめざして歩んで行きたい。

著者略歴

工藤定治(くどう・さだじ)
1958年、岐阜県生まれ。
2013年、句集『萩原』(私家版)上梓。
2014年、ブログ「クドウ氏の俳句帖」開始。
2015年、「南風」入会。

句集『稲津』(156)六花

【句集『稲津』(156)】

彼方より沈黙つれて六花


外は雪が降っている。雪は遠い彼方からやってきて静かに降り積もる。雨のように音は立てない。雪も降る雪を見る人にも、ただ沈黙の時間があるばかり。


寝室に響くストーブ燃ゆる音


寝室に一人いる。暖房のために焚いている灯油ストーブの音が聞こえるだけ。ストーブの覗き窓には、赤い炎が燃えているのが見える。炎は上に上がり、常に揺らいでいる。