『流寓抄以後』の久保田万太郎

『南風』2019年11月号に掲載された原稿の転載です。

 

『流寓抄以後』の久保田万太郎

 

 昭和38年5月6日久保田万太郎は、赤貝の鮨の誤嚥下による気管閉塞窒息により享年73才で逝去した。
 『流寓抄以後』は、昭和33年8月から昭和38年5月の死の当日までの約5年間の作品集であり、本来亡くなった愛人三隅一子の霊前に供えるべく準備が進められていたが、結果的に遺句集となった。
 句集に対応する万太郎の年齢は、11月7日が誕生日なので、68才後半から73才の最晩年の時期にあたる。万太郎は小説・戯曲作家であったが、当時流行した自分の生活を材料にした告白体の私小説は一切書かなかった。また、日記・書簡の類を遺すことも極めてまれであった。万太郎にとって俳句はいかなるものであったのか。『久保田万太郎全句集』編集者の安住敦の解説を引用する。

 

「主宰誌を持つやうになつてからも、この作家の、俳句を余技とする立場に変りはなかつたが、その余技とする俳句はひたすら心境的、私小説的になつていつた。ことに戦後文壇、劇団その他に亙つての生活の輪の拡がりにともなひ、身辺愴惶を極めたこの作家にとつて、俳句は常に自己凝視の場となり、ときに安らぎの家ともなつていつた。そしてあたかも日記をでもつけるやうに克明に、その日その日の出来事や感慨を詠ひつづけていつた。」

 

 万太郎という人は、素肌を人目に晒すことを極端に嫌ったと言われている。持ち前の潔癖症な性格と、都会人の羞恥心によるのだろうが、あらわな自己表出の小説を書かなかったことに相通ずるのである。俳句においても「心境小説の素」に言葉の芸を尽くし作品として提示してくる。
 『流寓抄以後』の俳句には、万太郎自身の老いと病が進行するとともに、近親者・友人知人との死別が深い影を落として、万太郎の孤独感はこれ以上ないものとなっていく。


 秋風やころばぬさきの杖を突き


 句集の冒頭句、前書きには「このごろステッキをもちふ」とある。肉体の衰えは足に顕著に現れる。昭和35年12月には胃潰瘍が悪化し、断酒。


 冬ごもり苦髪のびるにまかせけり


昭和36年4月糖尿病治療のため入院、病棟で23句を詠んでいる。以降、入退院を繰り返すようになる。  


 見ゆるもの霞む空のみこゝ五階


 健康状態の悪化もさることながら、万太郎を近親者の死が襲う。昭和32年2月、一人息子の長男耕一を肺結核で亡くしている。逆縁の悲しみは生涯胸中にあったと思われる。句集には耕一を偲んだ2句が載せてある。


 何おもふ梅のしろさになにおもふ
 春雪やよびさまされし死者の魂


 万太郎は昭和32年、不仲であった妻きみと別居し、愛人三隅一子と同棲生活に入る。ところが昭和37年12月三隅一子は脳卒中で急逝する。最愛の人を突然失った万太郎の慟哭そのままのような十句が詠われている。


きさゝげのいかにも枯れて立てるかな
何か言へばすぐに涙の日短き
燭ゆるゝときおもかげの寒さかな
たましひの抜けしとはこれ、寒さかな
戒名のおぼえやすきも寒さかな
なまじよき日當りえたる寒さかな
何見ても影あじきなきなき寒さかな
身に沁みてものの思へぬ寒さかな
雨凍てゝ来るものつひに来しおもひ
死んでゆくものうらやまし冬ごもり


 句集名を『流寓抄』としたように、万太郎は自分の人生を「流寓」と認識していた。世間的な名声の一方で、精神状態は放浪ともいえる状態が続いていく。
 昭和34年の句


初日記いのちかなしとしるしけり
一生を悔いてせんなき端居かな
老残のおでんの酒にかく溺れ
煮大根を煮かへす孤獨地獄なれ


「いのちかなし」「一生を悔い」「老残」「孤獨地獄」、無残な言葉が句の中に詠み込まれていく。「孤獨地獄」という言葉は、強い孤独感を表現するのに「孤獨」だけでは不十分として「地獄」を付け加えた造語にしたものだろう。人生への後悔と老いの進行に孤独感がからまり、蕭条たる心の荒野がひろがる。
 昭和37年の句 


 余命いくばくもなき昼寝むさぼれり


 入退院をくりかえすなか、万太郎は自分の死を意識せざるを得ない。もはや「余命」のなかにあるとの諦観。
 昭和38年、三隅一子の死をめぐる十句の後に、あまりにも有名な湯豆腐の句が続く。三隅一子が、脳卒中を起こしたのは、万太郎の帰りを門の外で待っていたためであり、生涯で最も献身的に尽くしてくれた人を失くす原因となったことに自責の念は強かったと思われる。


 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり


 最後の心の安らぎであった三隅一子の死により、「いのちのはて」は万太郎にとっては実感そのものであったと思われる。「いのちのはて」などと言えば、その大仰な物言いが忌避されるところだが、この句の場合「うすあかり」とつながることにより、湯豆腐の季語との取り合わせもあり、ぼんやりとした光の中に湯豆腐を眺めて座っている作者が見え、茫漠とした哀感が拡がるのである。


 鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな


 この句は湯豆腐の句の後に載せられている。鮟鱇鍋をつつきながら、悔恨の思いの一句である。現世における罪業、悪業を意味する「業」が、鮟鱇と共に鍋の中で煮えている、それを凝視する万太郎。悔恨は次から次へと湧きあがり煮えたぎる、この句の凄まじさは破格である。
 万太郎は、もう健康に注意する必要はないといい、酒を浴びるように飲み、酔っては泥のように眠る無頼な生活となっていく。しきりに会合にも出席し、人に会うことで気を紛らわしていたのであろう。そして「うらやまし」とした突然の死が万太郎を襲うのである。
 万太郎は、私俳句と言ってよいほど自分の心境を俳句にゆだね詠むことにより、自らを慰謝し救済してきたといえる。あからさまな自己表出はしない万太郎だったが、晩年は生老病死と対峙せざるを得ず、寒々とした生々しい心境がより強い言葉を選んで直截に俳句に投影されているといえるのではないだろうか。
 死後残された俳句手帳の最後の頁に次の句が記されていた。


 牡丹はや散りてあとかたなかりけり